虫窪
であった出来事
「大磯町史 8 別編 民俗(編集発行大磯町2001年)」
「大磯町史民俗調査報告書1〜3(編集発行大磯町1997年他)」
「大磯町文化財調査報告書第19集 黒岩・西久保・虫窪地区(1979年)」
「大磯町文化財調査報告書第27集むかしがたり(1987年初版)」より
「資料室だよりvol.1」No.5/1986.1(大磯町立図書館郷土資料室 佐川和裕)」より


虫窪 上入

虫窪 谷坂(狐火は向かいの山の2本の電柱の間あたりに見えたという)
38 虫窪のタヌキ「タヌキの訪問」虫窪の慶林寺は、60年以上前は無住だったので、吉沢からばあさんを呼んで留守番をしてもらっていた。ある夜。ばあさんがボロを縫っていたら、裏の方で「オイ、オイ」と呼ぶ声がした。誰か尋ねてきたのかと思い、戸を開けお灯明で見ると、タヌキが土手の上に立っていて「オイ、オイ」と呼んでいるではないか。ばあさん「なあんだ、誰かと思ったら、おめえはタヌキか」と話しかけた。タヌキはしゃあしゃあと立っていて、相変らず「オイ、オイ」と呼んでいたという。このタヌキ、毎夜やってきては「オイ、オイ」と呼ぶので、ばあさん薄気味悪くなり、近所の人に「鉄砲うちに頼むべえか」と話しをした。この話をタヌキが聞いたかどうか分らないが、その後、こなくなったという。何日かたってから吉沢の鉄砲うちが、慶林寺の近くの土手で、昼寝をしていたタヌキをうち剥製にしたという話を聞いた。(話者:不明)「大磯町文化財調査報告書第19/P80」
42 虫窪・丸山の狐火
(キツネに騙された話は)俺は信じねえよ。あれ酔っ払ってたのを狐のせいにしてんだべ。俺もそんなこと(狐のせいにしたこと)したことあるし。(狐火はどうですか?)狐火はあるべ、見たよ。女房がきた(昭和)26年頃、まだ山で仕事している時分、5時かまだ明るい頃だ、向こうの山に提灯が6個かそこら、繋がって歩いてた。薄明かり時分。(その提灯は誰かが持っていたんですか?)いや提灯だけが。(両手で15センチくらいの輪を作って)こんぐれえの。(まんまるの提灯ですか?)まんまるじゃなくて少し長かったな(直径15cm、長さ20cmくらい)。(何か提灯に字は書いてありましたか?)それは見えねえ。遠いから。スーッと行くんじゃなくて、(手を上下に揺らしながら)こんなふうに揺れて歩いてた。これは俺が見たんだから確かに。(虫窪/昭和4年生まれ 二宮武男さん 2024.10.1に直接聞き取り)二宮さんの畑は栄山(えいやま)の山頂付近にあって、そこから谷向こうの丸山の道の、ちょうど2本の電柱の間あたりを動いてるのを見た。
43 虫窪のキツネ「オーフケェー」
夜、水車場※で穀をついて、にないをかついで家へ帰る途中キツネに化され、穀をおんまけてしまい、にないを逆さっくりにつけて、「オーフケェー、オーフケェー」と言いながら、からもんのにないをかついで家に帰ってきた。(話者:虫窪 二宮秀韶さん/明治27年生まれ。おばあさんから聞いた話。)※虫窪の二宮武男さんによると水車場は下田バス停の下にあったという。「大磯町文化財調査報告書第19/P80」
56 41 40 39 国府新宿〜虫窪の狐火 狐塚六所神社の東側・ボッタリ・菅原天神・「虫窪」バス停付近
(虫窪の話者が)国府新宿からの帰りだが、狐塚(54.六所神社の裏にある)のそばへくると、月京の方にぱっと火がついた。長谷川の近くまでくると消えて、ボッタリの山の上の方(41)に火がつく。大曲のあたりにくると消えて、天神さんのてっぺん(40)に火がついた。自宅の長屋門の所へくると、油屋(39.屋号で二宮寿嗣さん宅)のあたりから、ごやごや提灯がいっぱいでてくる。この頃油屋では、部落の役員をやっていたので、今夜何か寄合でもあったのかと思って、長屋門の前で立ち止ってよく見ると、そうではなく藪の上に見え、そこから下へ数多くおりてくる。下までくるとひょっと消えて、戻らないでぱっと上の方につく。これを何度も繰り返している。
一番近い所までは、長屋門から100m位の距離なので、その明るさで土手の草が見える。更に透して見ると、提灯に筆太で字が書いてあるのが分かるが読めない。着物がさがって裾まで分るが、胸から上の方は分らない。
このようなことにでっかしたのは、始めてではないので、二宮さんはキツネに向って大声で、「バカヤロウ、ごまかされないぞ、おらあねちまうぞ、ぬしらあかってにしろ。」といい、門の中へ入って吹きだしてしまった。そして5・6間ばかり歩いたが、気になるので、戻って入口からそおっと首をだして見ると,まあだいったりきたりしている。「ぬしらあなんだよ。いいかげんにしろや。」といって再び門の中へ入ったという。
この明りは真赤で、提灯の明りより赤く、丁度、祝言のときの行列のように見えるので、キツネの祝言というのだといわれている。キツネは燐(魚や犬の骨など)を口にくわえるので、明るく提灯のように見えるのだともいう。(話者:虫窪 二宮秀韶さん/明治27年生まれ)「大磯町文化財調査報告書第19/P80」
虫窪のキツネ カイガラ坂「石をぶつけられた話」
二宮の中里っていうとこだけどね、虫窪から西久保のかたが、うちヘヒョートリに来てられたの。 日当とりに。仕事にね。そしんと、カイガラ坂って、虫窪へ行く山があんの、道が。そこへね、 十二時ごろ、そのおじいさんが通んとね、狐が石をぶつけんですって。そしんと、「こんちきしょー、また石をぶつけたか」 せって、うちへ 帰ったとかって言う話を、あたしなんかが小学校 行ってん時分に聞きましたよ。夜、おじいさんせえ人は、十二時ごろ、いつも遊んで帰らんだって。 そうしんと狐がね、バシャバシャって石をぶつけんとか。ぶつけんだか石を足でひっかくだかな。 (話者:寺坂 小早川マキさん/大正9年生)「大磯町文化財調査報告書第27集」P50
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虫窪のキツネ「キツネよけにツケギ」
祝言の帰り、夜道でご馳走をキツネに食われてしまい。からもんの風呂敷を提げて家に帰ってきた。どこで食われたか全く分らず、外套を見るとキツネの毛がついていたという。そのため、祝言や人寄せのとき、大抵夜になるので帰りは気をつけるといわれ、キツネにとっつかれねえように、必ずご馳走の中にツケギかマチ(マッチのこと)を入れた。(話者:虫窪 二宮秀韶さん/明治27年生まれ。おばあさんから聞いた話)「大磯町文化財調査報告書第19/P80」
虫窪のキツネ「夜出歩いてはいけない」
キツネに化されると、そこいらがボヤボヤに見えてしまい。「オーフケェー、オーフケェー」といいながら、何んだか分らない所をさまよい歩いてしまうらしい。目がちらちらして幻惑され、方向を間違えてしまうので、急がずブラブラ歩くのだという。キツネは人を化して面白がるので、二宮さんは子供の頃、夜、歩くことを禁じられていたという。(話者:虫窪 二宮秀韶さん/明治27年生まれ)「大磯町文化財調査報告書第19/P80」
虫窪のキツネ「同じ道を二度歩く」1930年以前
虫窪の二宮道明・柳下信治・土方藤三さんらは、青年の頃、今から50年以上前(当時)、好きで発句(俳句)をやっていた。その頃、井の口に住んでいた雅号無名庵という先生の家へ、つくった発句を見てもらいにいった帰り、10時過ぎになったが、月夜の晩で明るかった。そのためいつもの道でなく、遠回りして花籠台※の所へでて、浅間さん※を通って帰ろうということに意見が一致し、話しながら歩いてきた。途中、浅間さんの道っぷちの芝にぶっつあって、一服してから再び歩き始めたが、暫くしてどうもこの道は変だなあ、おかしいぞ、方角を間違えたのではないかと気づいた。立ち止って、皆でよく思いだしてみると、同じ道を2度歩いてしまった。こんな月夜の晩に道を間違えるなんておかしい。きっとキツネに化されたのではないかと、3人で話しあったという。(話者:虫窪 二宮道明・柳下信治・土方藤三 要旨)「大磯町文化財調査報告書第19/P80」※花籠台は足柄上郡中井町井ノ口2840「花籠の台」※浅間さんは中井町半分形の浅間神社か。
虫窪のキツネ「キツネの祝言」
碁が好きで、若い頃、生沢の二宮貞節さん宅や国府新宿のモチヤ(屋号で国府郵局長宅)へよく碁をうちにいった。帰りは大抵夜の10時か11時頃になってしまい、夜道を1人で歩いているとき、キツネの祝言に出合ったという。
ある夜、生沢から山道を越えての帰り道、山のてっぺんに火がともった。そばへくると、提灯が5つ6つ並んで山をおりてくる。下の方までいくとひょっと消えて、また、山のてっぺんに火がつく。(話者:虫窪 二宮秀韶さん/明治27年生まれ)「大磯町文化財調査報告書第19/P80」
虫窪のキツネ「キツネの酒盛り」
若いし(作男)が、ある日山の畑で農良仕事をしていると、真昼間だが隣りの畑の真中で、キツネが沢山寄って木の葉を集め、その回りで踊っていた。この様子がまるで酒盛りの真似をしているように見えたという。
そこで若いし鎌を持って、馬鹿踊りをやりながらそおっとそばへ寄っていき、鎌でぶんなぐったが逃げてしまった。もっと力を入れてぶんなぐれば、一匹とれたんだがなあと残念がりながら話したという。キツネはいろんな芸をやるんだともいう。(話者:虫窪 二宮秀韶さん/明治27年生まれ)「大磯町文化財調査報告書第19/P80」
虫窪の人魂「丸い透き通った青い光」
虫窪の古正繁治さんが16歳位のとき、今から60年前(聞き取り当時)。古正政男さんの祖父房五郎さんが亡くなって、通夜の晩はどんより舞っていた。若い者2,3人で、ソバが入っているお重を、黒岩の正泉寺へ届けにいく途中、三軒家の上の方で,30cm位の丸い透き通った青い光が、あがったかと思うとさがり、さがったかと思うとまたあがり、そのうち見えなくなってしまったという。
この頃。虫窪の慶林寺は無住で、黒岩の正泉寺が兼務していた。(話者:虫窪 古正繁治さん/明治32年生まれ)「大磯町文化財調査報告書第19/P82」
虫窪の人魂「ファリファリ飛ぶ人魂」
虫窪の二宮道明さんの父佐十郎さんは、雨っぷりあげくの日、いい気分で家への帰り道、人魂がファリ、ファリ飛んでいたので、立ち止ってよく見ると,自分の方に近づいてきた。それを待ち伏せ、そばへくるやいなや持っていたから笠で、気合いを入れワッと叩いたら、パラ、パラっと散ってしまったという。(話者:虫窪 二宮道明さん/明治28年生まれ)「大磯町文化財調査報告書第19/P82」