
生沢
であった出来事
「大磯町史 8 別編 民族(編集発行大磯町2001年)」
「大磯町史民俗調査報告書1〜3(編集発行大磯町1997年)」
「大磯町史民俗調査報告書2 国府の民俗2 月京・生沢・寺坂地区」
「大磯町文化財調査報告書第27集むかしがたり(1987年初版)」より

生沢、谷戸川
30 琵琶〜鷹取のキツネ 琵琶の池田・一本松「いいオカミさんに連れていかれた話」 琵琶は平塚市土屋にある。琵琶公民館のあたり。
うちの兄さんはよ、化かさいて。狐がいただね、 だけどおかしいねえ、今じゃ。琵琶の池田んとこへ行ってね、一本松んとけへ行ったらよ、狐がついてきやがって。兄さんが、ポカンポカンしてんもんだから。丸髷を結って、いい着物を着て、いい奥さんだとよ。狐がでてね、化かさいてね、「こっち行きましょ、道はどっち行くだね、こっち行きましょ、あっち行きましょ」 あっこに鷹取さんがあんだ。そーすりゃね、鷹取さんの方へ連れてっちまうだと。いいオカミさんでね。「ここが道だか、いい、行きましょ、行きましょ」 まあ、 どこまでも行ったら、ペッと消えちゃってよ、いくら呼んでもいねえだ。まあ、困っちゃってな、行くとこ見つかんねえでね。(話者:寺坂 須藤カメさん明治25年生)「大磯町文化財調査報告書第27集」P46
30 15 鷹取山〜湘南平を行き来する大蛇
大きなのがいて、まあこのへんから、今の湘南平だな。鷹取山くらいから湘南平の方へ行ったり来たりしてんだとよ、なんてそういう話を聞いたことありますけどね。(西久保、明治44年生まれ)「大磯町史民俗調査報告書1」P148
31 生沢・見建の大石の大蛇 「大石の周りを7回半」
鷹取山へ登る参道の鳥居の右側に、生沢一の大きな石(8畳敷位)がある。この石をみけんの大石と呼んでいる。みけんとは鳥居の当りの小字名で「見建」と書く。下に小さな石があってその上にのっている格好で、手で動かせそうだかびくともしない。この石の回りを右に7回半回ると大蛇が出て来るといわれている。石の側に大きな松の木が一本ある。この松を千年松と呼んでいるが今は枯れている。(大磯町文化財調査報告書第13集生沢地区P58)
31 たかとりの釣鐘
ある大雨大風の時、たかとりのつり鐘が横の谷へ落ちました。その釣鐘が大蛇になって門の所にある大きな石の下にかくれたのださうです。そしてその石を夜中に七回眼をつむっててんがらをかいて廻るとその大蛇が出ると言ってゐますが、今だにだれもまわったものがないそうです。(『資料紹介「昭和9年未完郷土の伝説(民間信仰史)」山田一男」佐川和裕著』)
32 生沢のキツネ 垂氷(タルヒ)「垂氷のボッコギツネ」
現に見たこともあるし、話にもずっと昔からいろんな話に聞いてますがね。狐にばかされたってことはね、チャハンジ(茶飯時)に話を聞いてたよ。わたしが現在よ、見たものはね、わたしの友だちでね、仕事師していた○○て人がいたですよ。その人がね、虫窪の方にね、建前に行って ね、ご馳走やなんやらね、もらってきてね、垂氷ってとこにね、垂氷のボッコってキツネがいたんだ。なんだってきたなかったそうだ、そのキツネ、わしなんて見ねえからわかんねえが。それにばかされたらしくてね、ご馳走うんともらって、建前にね、建前にたいがい、口取って祝言の、昔のいろんなご馳走があるでしょう。ああ いうものたいがい出したもんだよ。その山坂を下ってきたら、この向こうに、今でもオモンさんっていう雑貨屋 があるんだけども、そこが夜になるとワケエモン(若い者)の溜まり場になってだよ。 そけえ、いってたら、その仕事師の○○っていうのが、帰ってきて、「おら、ご馳走うんと、建前行ってもらってきたから、食うべえや。 ここで食えよ」「そうけえ、そんなにご馳走もらってきたのけえ。じゃあこけえ(ここへ)出せよ」それで昔は、 仕事師は、今はジャンパー着てるけんどね、昔は、ハラガケっていうのを着て、ハッピをこう着ていた。ほいで、ハッピのなにを、ハラガケのドンブリから、「それ、これ魚だ」「それ」ってほっぽり出したのが麦の穂、麦の穂ばっかし。「なあんだ、麦の穂ばっかしじゃんか」「ばか、魚じゃねえ か」「こいつ、見ろ、キツネにばかされちゃってる」まあ、そういうこと があった。ほいで、気がついたら、「なんだ、ほんとに魚じゃなかったな あ。じゃあ、どけえいっちゃったんだべなあ」で、キツネにじゃあ取られちゃったんだべえ、っていうようなこともあったし。(男、明治41年生、生沢)「大磯町史民俗調査報告書2/P176」
33 生沢・東 観音寺入り口あたり 「送りイタチ」
東の観音寺入口の二宮清さんの屋敷内や、東昌寺入口から北へ谷戸川沿いには、かなり広い竹籔があり竹が沢山あった。この竹薮にイタチがいて、夜、そばを人が歩くと、ガサガサ、ガサガサと音がし、気味が悪いので立ち止まると音がしない。人が歩くたびに行ったり来たりしていたので、このイタチを送りイタチといった。子供の頃、使いなどで1人で行く時は、こわいので駆けて通った。(大磯町文化財調査報告書第13集生沢地区P59)
35 生沢のマモノ
イン(国府実修学校※今の大磯学園)のそばの榎のところから 川づたいに、マモノが出たという話を聞いたことがある。要旨(寺坂)「大磯町文化財調査報告書第27集/P64」
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35 生沢のキツネ 不動川「風呂は川」
確かに狐はいることはいた。あっこの、学校にいくところに川がありましたね。あすこ、当時ね、お風呂入って、川入って、「いい湯だ」なんて言ってね。人力車引いていた人がね、「よくオレを牢屋に入れやがった」って怒ったって。そういう話聞きましたよ。(話者:新宿、明治38年生、男性)「大磯町史民俗調査報告書2/P178」
35 生沢 不動川 「 おお深い」「おお、深え、おお深え」って言ってね、川ん中ね、道じゃなくって。「おお深え、おお深え」って言ってね、一晩中歩ったなんてよ。 川ん中。魚もらってきたりなんかして、そいで、朝んなって気がついたら、魚もなんにもなかったてよ。で、川ん中歩ったって。うち のおやじがよく言ったよ。なんとかっていうおまわりさんが、その不動川でね、「おお深え、おお深え」って、魚もらってきてね、漁師に、魚もらってきて「おお深え、おお深え」って、朝になって気がついたら、魚がなくて川ん中歩ってたって。(話者:新宿、明治38年生、男性)「大磯町史民俗調査報告書2/P178」
*そのおまわりさんはTさんの家にきてよくこの話をしたという。
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34 36 生沢〜馬場 諏訪ノ下のキツネ 「マタッコウモリ」
竹内貞次郎の息子の竹内ケンて人もね、当時、平塚の農学校、あすこへ、このへんじゃ、小田原の中学しかなかったわけよ。このへんはみんな農家だから平塚へ行ったわけよ。車があるわけじゃなし、 自転車があるわけじゃなし、 それで、平塚までずっと歩って、汽車みちをよ。歩って平塚の農学校行って、けえってくるときは、日の短けえときはよ、もう四時、五時によ、日が暮れるんだから、暮れから正月、二月三月までね。そいで、ある日のこと、神揃山って、 コウノマチ(国府祭)のあるところ、あすこにね、諏訪の下のね、 マタッコウモリって。マタッコウモリって狐の名前。その諏訪の下 のマタッコウモリに股くぐられんとばかされちゃう。そいで、その マタッコウモリの狐が畑にあすんで(遊んで)たから、石をぶっつけぶっつけ、神揃山へ逃げてくのを石をぶっつけぶっつけ、してそんときは、なんでもなくてうちへけえってきた。その次の晩方、学校からけえってきたら、ここは今、県道になってんだけんども、昔は、村の道だった。 そいで、あっこの今のプールんとけえ(とこへ) 橋がかかっててね、そっちの川の向こうっかたに道路があって、橋の下からね、砂、ぶっかけるやつがいる。だれが人に砂ぶっかけやがんだと。ま、いせえで(急いで)橋を渡って、そうしたら、広い、いい道になっちゃってよ。すばらしい道路ができた。いつのまにか、 今朝、こんな道路ができてなかったに、いつ、こんないい道ができちゃった。で、そんなことを考え考え歩ってたら、池ん中へドンブラーって落っこっちゃった。 そいで、気がついた。で、やっぱし、 もとの道だったってよ。よくそんな、自分でそんなこと言ったよ。 あの狐にやられちゃったにちげえ(違い)ねえ、なんて。わしなんかの学校の先生だったけどね。(中略)よくそんな話をね。(男、明治41年生、生沢)「大磯町史民俗調査報告書2/P178」
ケタケタ笑う
これは、うちの下のワケエシュウ (若い衆)に聞いたんだけども。 ○○っていう人がね、山からバンガタ(晩方)、さつまいもをしょってけえって帰ってきて、重たいから、しょったりなんかしてると、重たいから、休むとこがあんだね、途中にね。そこで休んでると、前の、あれだあ、山ん中でガサガサ音がするってんで、さつまいもの切れっぱしをポンポン、放ったと。で、うちへけえってきて、 めし (飯)を食って、で、夜遊びに、オモンさんてうちへ行ったあ。 で、みんなして、ミカンを、今でいう泥棒だあ。ミカンを盗みいくだがね、当時、ミカンをもごうが、柿をもごうが、若いもんがやることはね、絶対に警察やなんかは泥棒にゃなんなかった。 そいで、ミカンをそこにもぎにいって、みんな懐に、着物だからね、昔は。 着物に入れてけえってきて、その、ミカンをこっちにいた人たちに、 もぎにいかねぇ人たちに、「それ、それ」って、ケタケタ笑ってんだってよ。 そいでよ、あれだ、気持ちわりいからよ、そのそばに、青年会館があってよ、そけえ行くべよ、って。みんなしてそけえ行った。そけえ行ったら、やっぱし、ミカンを懐から出しちゃあ、ケタケタケタケタ笑ってた。おかしい、おかしいと思って、そのうちみんなが気持ち悪くなっちゃって、一人逃げ、一人逃げ、みんなうちへけえっちゃった。たった一人、私のうちの下っかたの不具者の人がね(中略)、その人一人になっちゃったの。気持ちわりいけんど、 うちへ送っていかにゃしょうがねえ。そこのうちは、一番谷戸のオキ。そいで、そこまで行くによ、薮で、道の両側におっかぶさってんの、トンネルみてえに。おお気持ち悪くてしょうがねけんど、送っていって、そいで、うちの人を起こして「なんだかよ、おたくの息子がおかしいだよ。だから送ってきたよ」「そうかあ、こいつ、狐にやられちゃってんな」って、おやじが言ったって。そいで、その人は、その明日の晩、また出てきた。なんでもなかったって。そういう話もまあ、うちの下の生きてれば、九十か百の人かなあ、そういう話も聞いたし。(男、明治41年生、生沢)「大磯町史民俗調査報告書2/P177」
※差別的な表現を含みますが、当時のことを理解するためにそのまま掲載します。
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生沢のキツネ 生沢〜出縄「おお深い3」
生沢から出縄行くのにね、女の人が尻まくって、「おお深い、 おお深い」と歩いていたと。それを見た若い衆が一緒になって歩いたと。そんな話はちょっと聞きました。
※ばかにされた女性の容姿をながめていたところ、その若者もいつのまにかばかにされてしまったという話。(話者:西小磯)「大磯町史民俗調査報告書4/P230」
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生沢のキツネ 狐にばかされるわけ
狐にばかされるとか、キツネッピが出るとか、そんなこたあ、ありえねえと思うんだけんども、当時は、そういうふうなあれで、狐にばかされた、狐にばかされたってよ、ことが、茶飯時に、「おれもやられちゃったよ」「おれもやられちゃったよ」っていうような話を聞いてますがね。だから、実際に、頭がどうか、考えごとかどうかでぼおっとしてんか、ここへくんと、昔っからの言い伝えで、狐にばかさんぞ、ばかさんぞっていうような気持ちになってそんなふうに、なっちゃうもんだか。今で考えれば、考えらんねえよ、狐がばかすわけねえし。(話者:新宿、明治38年生、男性)「大磯町史民俗調査報告書2/P178」
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生沢のキツネ 狐の生態
狐っていうのはね、気持ち悪いもんですよ。時間的に出てくんからね。もう、20年かそけえらたつけどね。このミカン畑、〇〇のミカン畑あるけど、そけえ、三時ごろになると狐が出るっていうですよ。午後三時ごろ。「そんなことあるもんか」「いや、出んだよ」 ということで、ある日のこと、三時ごろ、わたし行ってみた。なるほど、狐が出てくんだよ。 そいでね、そばへよると、さっと逃げん の。逃げんけど、ある間隔のあれをおくと、こうして、後見て、ああっと見てんわけだよ、気持ち悪いだ。こっちも、狐にばかされたばかされたって話を子供んときから聞いてんから、同時になんかね、 ぞくぞくぞくぞくってしん(すん)だよ。(話者:新宿、明治38年生、男性)「大磯町史民俗調査報告書2/P179」
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生沢のキツネ 狐はイオウを嫌う
狐はね、イオウを嫌ったもんだ。だから、昔は、マッチ、マッチにはイオウがついてる。そいで、マッチというのは、尊かったから、 ツケギっていう、今でいう経木だね、あれへ、イオウを溶かして、 茶わんかなんかに、イオウを入れて、燃すと、茶わんがあったまっ て、イオウが溶けんから、それへ、ふいっとこうやって、ツケギを作ったわけだ。それを、マッチを持っていけば狐にばかさんねえと。 そいで、わたしなんとより、五つか六つ、六つか七つ上の人、まあ、 (明治)三十六年くれえ生まれの人でね、学校の先生、○○っていう先生がいたの。その先生が、度胸だめしだっていうんで、ときたま、夜、夜中に、生徒を集めて、学校へ集めて、おばけの話だのなんだの幽霊の話だのして、それから、度胸だめしだということで、「薮のてっぺんまで行ってこう」「どこまで行ってこう」と、一人 一人やるわけ。ほいで、一人が、一番初めの人は箒を持ってとか、 熊手を持ってとかそこまで置いてこう、って。そいでねえとわかんんねえから。で、二番目の人は、それを持ってくんの。ここまで。そうしねえと行ったかわかんねえから。「今日は、度胸だめしだから、 われ、マッチを持ってけ」だとか、「イオウの固まり持ってけ」「ツケギを持ってけ」とか、そういうことは、あれだ、よく言ってたねえ、やった人が。(明治)36年くらいの生まれの人だった。だから、マッチのイオウが嫌いだと。(話者:新宿、明治38年生、男性)「大磯町史民俗調査報告書2/P179」
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生沢のムジナ ムジナ掘り
ムジナは、なんかね、ムジナ掘りって、昔の人っていうか、今でいえば百歳、百十歳くらいの人、ムジナ掘り、ムジナ捕り行くべえ ってことで、ムジナの穴掘りに行ってムジナ捕ってくる人が、三、 四人いましたよ。そんで、ムジナの穴ってえのは、こんなに小さい もんですよ。で、中行くと、やや十文字に、迷路みてえに開いていて、それをね、三人、四人、五人で掘りに行くわけだよ。ほいで、 ぐるりに抜け穴ってのがあんからね、これを先にふさいじまうだ。 ほいで、穴のところに細い棒、さしておくの。(後略)
*次第に穴を大きくし、人間が入れるくらいにする。中の泥を掻きだし、ムジナを木の股で押さえ付けて捕まえた。皮はなめして売り、肉はムジナ汁にした。(話者:新宿、明治38年生、男性)「大磯町史民俗調査報告書2/P179」
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生沢の人魂
よく、身内のもん(者)が死んだりなんかすると、そうすると、 雨戸かなんかにでっかい音が、ドカンと、音がしたと。だれか、お別れに来たなあ、そうしんと、親戚の人が死んだ。だから、あの音は、あれだあ、最期のお別れに来ただなあ、ってことは、よく、わ たしの父は言ってましたねえ。人魂が出たとか、飛んでたとか。人魂っていうのは、二十歳まで見なければ一生見ねえけんど、二十歳までに見んと幾度も見るって。うちのばあさんが幾度も人魂見たっていうんだ。で、実際にね、火が出んだっていうことらしいみてえだけんども、まあ、今だって解明できねえらしいだけども。うちの下のね、○○っていう人が、大正六年の春死んだっていうんだけんども、(中略)○○と○○と○○と三人で、晩方、裏の横っちょうでね、仕事をしていたと。そしたら、便所の窓から、ぼおっと火の玉が出てきて、薮へ消えてったと。で、三人で見てね、「あらら、 なんか火の玉が出てきた。飛んだ」と。そしたら、おじいさんが「黙ってろ、黙ってろ。○○が死にかかってんだから、危なねえだから、 ○○の人魂だから、黙ってろ、黙ってろ」。そいで、二、三日たって亡くなっちゃったと。で、実際に、あの人魂だったなあ、って、よ。 ○○だの○○だのが、わしなんかより、六つか七つえらかった(年上だった)人が言うだから、間違いないと思うだけんども、目の錯覚ばかりじゃないと思うだけんども、昔の便所はね、ガスが出んと、 なにかの拍子に火がつくと、あの、便所の窓から飛び出したりなんかすると、学校の先生もよくそんなこと言いましたけんどもね。本当に、ガスが出たかもしれねえなあ。大概、お寺に行ってけえた(消えた)、お寺に行ってけえたって言いますね。で、かならず一日か 二日たつと、人が死んでる。(話者:新宿、明治38年生、男性)「大磯町史民俗調査報告書2/P180」
#kitsune #folkrore #キツネに化かされた #キツネ #口承文芸 #生沢のキツネ
生沢・西の池 東の池のカッパ?
よく川へなんてね、行くと、カッパが、深いところ行くと、カッパにね、引きずりこまれるぞ、深いとこ行くじゃねえぞ、カッパに 引きずり込まれるぞ、と、親たちにね、よく言われたよ。というのはね、深いところいけば、おぼれて死んじまうぞっていうおどしじゃなかったか。カッパっていうのは、西の池にも東の池にもいたあべえ。よく似てんだよ、カッパっていうのは、今、よくテレビで酒の宣伝であんじゃねえか、あれとおんなし(同じ)。水中の虫だね。あれとおんなしだよ。これくらい。(10センチメートルくらいで 足がある虫。このあたりではカッパとよんでいた)(話者:新宿、明治38年生、男性)「大磯町史民俗調査報告書2/P180」
*妖怪のカッパの話を伺ったところ、カッパによく似た虫を淀んだ川などで捕ったという話になった。